松本城三の丸跡大名町第3次発掘調査 現地説明会に参加して来ました!
2019年9月21日(土)小雨降る朝
松本市教育委員会では、平成31年(2019)4月から、かつて松本城三の丸だった大名町・土居尻の2カ所で発掘調査(大名町第3次発掘調査・土居尻第11次発掘調査)を実施しています。
その発掘成果報告会に大名町の部に参加しました。
松本城三の丸ってどこなんだろう?
松本城の天守は国宝です。しかしそれだけではなく、その周りにある石垣や堀なども、国の史跡に指定されていて、天守と同様に大切なものです。江戸時代の松本城は、現在松本城公園となっている、天守のある本丸・博物館などがある二の丸だけではありませんでした。公園の南側にある大名町や、東側の市役所のあるあたりなども三の丸とよばれる城の範囲でした。江戸時代が終わり、明治時代になるとお城は不要なものとなり、堀の多くは埋められ、土塁のほとんどは崩されて、三の丸の一帯は市街地となりました。
昭和になり、天守のある本丸、その周囲の二の丸一帯は国の史跡になりましたが、その範囲の中にもかつては裁判所や学校が建てられていました。それらはやがて城の外に移転し、公園として整備され、現在の松本城公園となりました。また、わずかに残された総堀や、近年整備された西総堀土塁公園も、史跡松本城の一部です。(国宝松本城HPより)
大名町第3次発掘調査
大名町第3次発掘調査は、令和5年度(2023)に新しい松本市立博物館が開館する予定地で行われています。
江戸時代、このあたりは上級武士の屋敷が立ち並んでいた場所です。
大名町にいた武士は250~500石クラスで、500坪前後の広大な敷地が与えられていました。
大名町での発掘調査は過去に2回あり、1次調査では、武家屋敷跡や松本城の前身深志城の堀とも推定される遺構、2次調査では江戸時代の水道施設の他、古代から中世にかけての生活面が見つかりました。(資料より)
井戸桶 染付皿(肥前焼) 発掘作業のようす
写真パネル
遺物展示
主に江戸時代の遺物らいしですが、詳しくは今後時間をかけて調べていくそうです。
当日配布された資料から
今回の調査地は、大名町通り西側の南端部に位置する武家屋敷です。地表面から10~50㎝程の深さでは、幕末~明治時代前半の生活面(第1面)が見つかり、本願寺松本別院に関連する遺構・遺物を確認しました。現在は、さらに20㎝程掘り下げたところから見つかった江戸時代の生活面を調査しています。調査では、上級武士の規模の大きい武家屋敷利用の方法が変化している様子も確認することができました。また江戸時代前半、中頃、後半で屋敷地利用の方法が変化している様子も確認することができました。
今回、1,000㎡以上という広い面積の調査となったため、文献資料でも手掛かりの少ない上級武家屋敷地内の土地利用を理解する上で非常に重要な成果と考えられます。
遺構
第3次発掘調査「大名町」江戸時代は上級武士の家が建ち、300m.の中に片側4軒しか建っていなかった。1軒500坪ほどの豪邸。1,000㎡以上の調査なので、どのような暮らしをしていたかよくわかった。
江戸時代に1.5m.程の盛土をしていたが、今回はそんなにはしてなかった。理由は定かではないが、江戸時代は、災害で壊れたものの上に盛土をして家を建てていた。東側はあまり盛土がなく西側に低く傾斜している。
明治時代前半の地面が出て来た。明治9年に京都の本願寺、明治13年に松本別院が建てられその後本堂などが出来ている。昭和30年頃に蟻ヶ崎に移転した。今回は本願寺に関わる遺構遺物も出土している。明治21年の大火で本願寺も焼け落ちた。
竹で造られた水道施設
明治20年以降に造られた「木製水道管」
発掘調査説明会に参加して
松本城三の丸跡地は、江戸時代にあった大名屋敷がどのように壊され、本願寺別院が建立され、なぜ昭和30年に本願寺は移動したのか、その時間と場所の変化がとても興味深いです。
私が知っているのは、昨年まであった大手門駐車場まででした。その前には小さなお店が沢山あり立ち退きに遭い駐車場になったと聞いています。
そしてこれからここに大きな基幹博物館が建てられます。新しいものが出来ることで周りも影響を受けて場所の役割や地の力が変化することと思います。
今回のような発掘調査説明会に参加すると、大地は時代の傍観者であり静かに時の流れを見つめ記憶していたのかと思うと、感慨深いものがあります。